遠寿院

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第33回修法研修会

第33回修法研修会(2013年12月10日)
『止観とその行法―東アジア世界の受容』
講師 東京大学大学院教授  蓑輪顕量先生

要旨

 仏教の修行方法は、止と観と呼ばれる心の観察が基本となる。その両者の成立の背景と具体的な内実、すなわち止は心の働きを静めること、観は判断了別の働きを離れることにその目的があったことを明らかにする。その止観がどのように東アジア世界に紹介され、受容されたのか考察する。最終的には、その止観の伝統が宗門の中に、あるいは宗門の行法の中に、どのような形で流れているのか明らかにしたい

講師プロフィール

 東京大学大学院教授。博士(文学)。1960年千葉県に生まれる。千葉県龍蔵寺徒弟。1979年東京大学文科三類に入学。1990年同大学大学院単位取得退学。愛知学院大学助教授、教授を経て平成22年4月より現職。専門は仏教思想。とくに日本仏教における戒、定に関心を持ち研究を続ける。著書に『中世初期南都戒律復興の研究』(法蔵館、1999、2012再刊)『日本仏教の教理形成』(大蔵出版、2009)。『仏教瞑想論』(春秋社、2008)など


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当日の様子

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参加者レポート

 「仏法とは自己を知ることだ」とは、道元禅師が教えた言葉だが、日蓮聖人も最も大切な教えとして「観心本尊鈔」を説き示された。この「観心」とは「観察己心」であり、いわゆる自己を観察するというテーマが仏道修行の最も重要な修行である。

 特に我々近代社会に生まれて育ち就学してきた者には、自我が育っている。この自我はそのままにしておくと「自己」に対立する心である。「自分には二つの自分がある」ということを意識し始めた時、「人は二度生まれる」とトルストイが言った、「2度目の誕生」を果たす。一度目は母親から生まれてくるときで、この2度目の誕生によって初めて人間的になるのだと言う。

 今回、12月10日午後2時より遠壽院の大広間にて、東京大学大学院教授 蓑輪顕量先生をお招きして、仏教の修行法の根幹である「止観とその行法」について講演を頂いた。

 日蓮聖人の「観心本尊鈔」は「摩訶止観第五に曰く・・・」と始まる。

 先生は参考経典を紹介しながら、「業」つまり、身体四肢の行う行為・言葉を発する行為・心で思い考える行為の一つ一つについて観察し、一つ一つの自分に気付いていくという止観業の基本的行法について解説された。

 おもしろかったのは「犬のたとえ」で、犬はつながれると最初は走り回って綱がピンと張るとスッコロンだりするが、次第にそんなことはなくなり、おとなしく静かになる。止観の「止」とはこれに似ていて「繋縁の止」と教える。例えば、はじめ「息の出てゆく・入ってくる」を言葉ではなく呼吸そのものを観じていく。また、歩く動作一つ一つ「左の足を上げる、上げた足を前に動かす、地に着ける、右の足を上げる・・・」というように、まさに一挙手一投足を観じていく。つまり、すべての自分の行為を理性的に意識上に認知するという行法である。これは仏教でいう「戒学」であろう。ほか「制心・すぐさま制して起こさしめない」これは「定学」、「体真・すべての事起こる真相は空であると観じて、様々な妄想思慮を止める」これは「慧学」であろう。そうして「静まった心」で、今度はあるがままに一つ一つを観じていく。例えば、痛みであれば「ああ痛みだ」と観じる。そこに感情が起こる前で留まるを良しとする。

 「見るといえども見ざるがごとく、聞くといえども聞かざるがごとし。見るにまかせ、聞くにまかせ、分別を挙げず」つまり受け入れ認知はするが判断了別をしない。ただあるがままを感じる。いわゆる、そこで過去の記憶に委ねて感情を起こしてしまうその心の循環が同じ過ちを繰り返す根拠で有るということなので、それを意図して止める、そして判断了別を加えず感じ始めるところに、今までとは違う今まで以上の世界が目の前に生まれ、一念三千とは心の環境が目の前の環境に移し鏡になる事であるから、まさに環境の変化が起きてくる。例えば「雷が鳴る→怖い→隠れ耳を塞ぐ→おへそを隠す」これはすでに雷は怖いという判断了別がすでにあっての行為である。そこを「雷が鳴る→ああ雷だ」と、あえて云えばその時、怖いという感情、もしくはすぐさま隠れるという心や体の動きを知り、必ずしもそうではないという意識に留まるという取り組みである。

 結論をつければ、心中の行為(感知→感情・思慮による判断了別→それに従った身体行動)という固定された行為の連続が有り、心中環境と目の前の環境は映し鏡であるから、その心中環境の状態が目の前の環境状況を生み出している。したがって、その心中環境の連鎖をほどくことによって、目の前の環境状況も変わり、いわゆる因縁呪縛から解き放たれるという、確実な人生変革の行法と言える。

 かつて遠壽院荒行堂は檀林の「文能・玄能」以上にのみ入行が許された。文能・玄能とは今で言う箕輪先生の様な立場の方の呼び名である。そういった教師の先生という高度な学識を備えた行者の、法華経の行法実践のために門が開かれていたのが大荒行堂であったことを本筋ととらえて遠壽院大荒行堂を護持する自覚を改めて再確認するとともに、入行を志す門人としての資質と向き合う良い機会となった。

遠壽院総合修法研究所々員 釋 一祐

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